プロ野球の選手としても監督としても活躍された野村克也さんが、2/11に亡くなられた。ヤクルト監督時代の「考える野球」「ID野球」でも知られるが、野球を愛し人を愛した人だった。ご冥福をお祈りいたします。
子供の頃からヤクルトファンでもあり、野村克也さんの存在は大きかっただけに喪失感も大きいが、個人的に印象深いエピソードを振り返ってみたい。
それから、本来は「野村元監督」と言うべきところだが、ここでは当時の言い方で「野村監督」とさせていただく。
野村監督の略歴
選手としても監督としても素晴らしい記録が並ぶが、記録以上に称賛されるべきは野球を進化させたこと。近代野球は野村監督なくしてありえなかったと言ってもいい。
選手として
テスト生で入団して3年目から試合に出るようになり、4年目に本塁打王となる。以降、数々のタイトルをとり、プレイングマネジャーも経験。26年の現役生活だった。
シーズン記録は、本塁打王9回、打点王8回、首位打者1回、そして三冠王1回。通算記録は本塁打657本、打点1988点、安打2901本、出場試合数3017試合出場と、これらは全て歴代2位の記録となっている。
監督として
南海のプレイングマネージャー時代から、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で24シーズンにわたり監督を務めた。
リーグ優勝5回、日本一3回。1992,1993と続けて西武と戦ったハイレベルの日本シリーズは伝説となっている。これについては、長谷川晶一さんが書いてくれるらしいので、楽しみにしたい。
監督としての通算成績は、1565勝1563敗。勝利数は歴代5位、負け数は歴代1位。しかし、平成に限ると最多勝利監督。
野村監督の指導
「ID野球」というのが野村監督の代名詞となっている。考える野球であり、データを生かした野球である。
そのほか、投手の分業制を確立したり、投手のクイックモーションや作戦面でのギャンブルスタートなど、それまで誰もやらなかったことを編み出して武器にしてきた。
これらからドライな性格をイメージすることもあるかもしれないが、さまざまな指導を見ているとそうでもないことがわかる。
人は何のために生まれてくるのか
ヤクルトの監督に就任し、最初のミーティングのテーマは「人は何のために生まれてくるのか」ということ。「世のため人のために生きる」ということからフォア・ザ・チームの意識を植え付けてきた。
しかし、これはただチームをまとめるためにどこかから持ってきた言葉ではない。野村監督が「母を見ていて、苦労ばっかりして何のために生まれてきたのだろうと思った」とおっしゃったことがあった。父親を早くに亡くし苦しい生活をしながら、野村監督が幼少から何度も何度も自問自答してきた言葉なのではないだろうか。
プロ野球選手となり母親を楽させてやりたいという一心で、先輩からの食事の誘いを断り毎晩素振りを続けた野村監督である。
野村再生工場
野村監督は、南海のプレイングマネジャー時代から何人となく選手を復活させてきた。「悪いところを直してやったら活躍できるようになっただけ」とおっしゃっていたこともあったが、きっと照れ隠しだろう。
他球団を戦力外となった選手に対して、観察し研究して気づきを与える。それも、魔法の言葉で伝える。江夏投手に「球界に革命を起こそう」と言ったことはあまりにも有名だ。また、広島からヤクルトに来た小早川選手には「お前は1年目に活躍する縁がある」と過去の経歴を調べて自信を持たせたこともあった。
インパクトのある言葉を言うだけでなく、調べ尽くして自信を持てる情報を集めることもあった。なんとかしてやりたいという思いがあったからだろう。
人を育てる
野村監督の名言に「金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すを上とす」がある。選手には「プロ野球選手は引退してからのキャリアのほうが長い」と話す一方で、選手たちそれぞれにさまざまなアドバイスをしてきた。
現在、ヤクルト高津監督のほか、阪神矢野監督、中日与田監督、西武辻監督、日本ハム栗山監督、楽天三木監督と教え子が全12球団中6球団で監督をしているのは、まさに人を残したということ。その他、二軍監督やコーチにも多数の教え子がいる。
最後に
よく「野村ー野球=ゼロ」と話されていた。野球以外に取り柄がないという意味でとらえることもできるが、野球が大好きで大好きで野球以外のことばかり考えているからということにも思える。
野村監督のことを知れば知るほど、こんなに野球が好きな人はいないと感じる。そして、自分に関わる人、野球に関わる人を愛し、試合に勝つことを通じて、その成長を楽しみにしていたのではないだろうか。「野村=愛」のほうがふさわしいのかもしれない。